極楽寺の歴史

旧本堂について
大正15年から平成14年まで極楽寺は洋館の建物で、そこではルンビニ女子学院という洋裁を中心とした女学校を経営していました。
この建築の発案者が16代住職の麻田昭道です。
昭道は札幌農学校と京都大学を卒業後、大阪・岡山・愛媛・福井などで旧制中学校の校長を務めたあと、大正8年に極楽寺に入り翌年住職に就任しました。
大正15年には自らが学んだセツルメント運動(貧困の解決のために金銭や物品を寄付するといった慈善活動ではなく、宗教者や知識人が貧困地域の人々と
生活を共にし、教育することで、貧困問題の根本から変えていくという運動。19世紀にイギリスで生まれた)に基づき、寺院を全面改築しました。
以前の茅葺き屋根の本堂は洋館に変わり、境内地にあった墓地は全て撤廃して、本堂の地下に納骨堂を建立しました。
この全面改築によって、見た目では寺院とわからない建築物となりました。
翌年4月、この新しい極楽寺で昭道は”ルンビニ女子学院”を開校し、地域の女子学生に仏教思想やそれに基づいた社会の見方などを教授しました。
当時の仏教界は、信仰は心の問題なので表に出す必要がないと仏教を通じて社会的な活動を行うことに否定的な論調でしたが、昭道は”真宗の信仰はそのままが生活であり生命である”とし、積極的に教育に仏教を取り入れました。
またルンビニ女子学院では洋裁を中心に、和裁・料理・社交ダンスなどの講義もあり、女性が社会進出するために当時必要であった分野も学ぶことができました。
さらに図書室や会議室を一般に開放し、地域の文化会館としての役割も担っていました。
昭道が取り組んだことは、形骸化した信仰を取り戻し、社会の中での仏教の役割を再構築するものでした。
建物はなくなりましたが、現在も昭道の志を引き継ぎ、伝統にとらわれず新しいチャレンジを続けています。
明石堂について

極楽寺の境内には明石堂といういう総欅(けやき)造の立派な御堂があります。明石堂は、小千谷縮布の創始者、堀次郎将俊のお墓があった極楽寺に、嘉永元年(1848年)、小千谷縮に関係する人々が建立し、極楽寺に寄進したものです。
堀次郎将俊は、播磨国(今の兵庫県)明石から移り住んできた人物で、小千谷で織られていた麻布を改良して今日の小千谷縮布の基礎を築いたと言われています。
嘉永元年(1848年)に小千谷縮に関係する人々が建設費を出して建立したもので、積雪を考慮した高床式で、内外の周囲には吉谷の柳田庄左衛門の手による彫刻をめぐらした立派なものです。
高さおよそ14.8メートルの御堂には吉谷の名工、柳田庄左衛門による精巧な彫刻が施されていて、当時の小千谷の隆盛を感じることができます。
極楽寺の
歴史年表

-
- 1560年
- 初代玄順が信州から越後に移り住み、長岡市摂田屋に光福寺を建立する。
-
- 1601年
- 玄順、小千谷に移り住み極楽寺を建立する。
-
- 1630年
- 2代了玄の時に正式に寺号と本尊(木像)を本山より受ける。
-
- 1640年
- 現在地の旧寺町に移転する。
-
- 1926年
- 16代昭道の時に、洋館風の寺院を建立する。 また、境内の墓地を全廃し、本堂の地下に納骨堂を設置する。 同時に寺院内にルンビニ女子学院を開校し、女子育成に力を入れる。
-
- 2003年
- 洋館風の建物の老朽化に伴い、バリアフリーの本堂・納骨堂を新築する。
-
- 2019年
- 極楽浄土ARを開発。
-
- 2023年
- 庫裡を土間に改装。