お知らせ
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宮城県亘理町で消しゴムはんこボランティア
今年も宮城県亘理町にある真光寺さんで、亘理の子ども達と一緒に消しゴムはんこで大きな作品を作ってきました。
亘理は苺の産地ということで、今年は苺畑にチャレンジしました。去年の枝垂れ桜はとにかく押しまくれ!というノリでしたが、今回は苺畑を思い浮かべながら押してみようということで、かなり慎重に押してもらいました。
震災支援ネットワーク東海の皆さんの仲間に入れさせてもらって、このような活動をやらせてもらっていますが、色んな繋がりやこの6年の積み重ねがあって初めて出来た作品だと思います。
たくさんの方の想いが集まって出来たこの場に参加出来て、本当に良かったです。
苺の株は実ったあと、新しい蔓を伸ばして、その先に新しい株をつけて、翌年に備えるそうです。
東海の皆さんや、真光寺の皆さんの活動はきっと新しい実りへと繋がる活動なんではないかと思います。
門徒総代さんが「お寺が変わってきた」と挨拶されているのを見て、それを実感して、ひとりジーンとなっていました。
良い旅でした。
4/15御取越報恩講法要のお知らせ
4月15日(土)は、親鸞聖人のご命日の法要である「御取越報恩講法要」がお勤めされます。
親鸞聖人は今から約850年前の1173年にお生まれになりました。
9歳で得度され比叡山に入り修行したのち、29歳の時に山を降りられ、 法然上人のもとで、お念仏の教えについて学ばれました。
以来、越後・関東など各地で教えを 広められ、90年の生涯を終えるまでお念仏とともに生きられたのでした。
その当時の仏教は貴族や比叡山の僧など、一部の特権階級が独占するものでした。
しかし、親鸞聖人は阿弥陀如来の救いは、あらゆる人々が対象であり、誰もが平等に救われて いくことを明らかにして、
当時特権階級の人々から差別 されていた民衆を解放したのでした。
親鸞聖人の生き方は、格差や差別の無くなることの ない現代社会にも光を与えるものだと思います。
私たちは普段忙しくして、自分自身のことを考える時間 は少ないですが、
御取越にお参りしてゆっくり自分を 見つめる機会としていただけたらと思います。
どなたでもお参りできますので、ぜひご参拝下さい。
(御取越日程 )
10:00〜法話
10:30〜雅楽演奏会
10:45〜法要
休憩
11:30〜法話
12:00〜お斎
お参り先での面白い経験
お彼岸でお参り回っていると面白い出来事にもたくさん出会うわけですが、今までぶっちぎりに印象に残っているのは、FAXの取り付けをしたことです。
「どうやったら動くんだい。付けてくんねぇか」と言われたので、せっせと取り付けて、寺にテスト送信をして「はい。これで動きますよ。大事に使ってくださいね」と言ったら、「ありがとう。本当に動くか見たかっただけなんだ。もういいから外してくれねぇか」と言われ、取り外しまですることになり、時間押し押しになってしまった事がありました。
そこのお宅にお参りに行くたびに、思い出しては楽しい気分にさせてもらっています。
色々と考えさせられたこと
非常に悲しいなぁと思ったことが2つありました。
これからお坊さんになる人達に、人権問題をテーマにした話をしてきました。
休憩時間には入り控室に戻ろうとしたところ、1人の若者が追いかけてきて話しかけてくれました。
その方には障害がある兄弟がいるとのことなのですが、以前周りから「お前の弟は障害があって、仏教の勉強が出来ないから仏教が理解できない。救われないのではないか」と言われ、何も反論出来ないまま今ここにいる。
このままで自分はお坊さんになっていいのだろうか。という思いを話してくれました。
講義が終わった後、本山の西本願寺に向かい、新しい住職の就任を祝う伝灯奉告法要をお参りしてきました。
全国から2000名以上の門徒さんが集まっていたのですが、法要後に住職一家からお話を聞く集いも行われました。
そこには年中さんの息子さんも住職の隣にいて、手を振ったりインタビューに答えたり、手話を使った自己紹介などをしていました。
その子はインタビュアーから「○○様」と呼ばれ、非常に丁寧すぎる言葉遣いで質問をされていました。
その様子を見ている門徒さん達は「かわいいかわいい」とニコニコしながら見ていました。
多くの門徒さんは、すでにこんな可愛い跡取りがいるのね。という安心感と、住職一家への親しみが湧いているようでした。
僕は、まだまだその場の感情で行動することの多いような子ども(将来設計なんて無い)に、跡取りとしての殻を被せていることや、演出の一部に利用されているという事実に、涙が出そうになりました。
仏教は、近づけない壁であったり、貴方はこういう役割の人間だという殻のようなものは、そもそも無いんだということを教えてくれているものだと思います。
壁だと思ったり殻だと思ったりしているものは、私が作り出しているもので、本当は誰もがつながりあって支え合っていて、大きな1つの流れの中で生きているということに気づいていって、私たちが作り出した壁や殻を剥がしていく営みが仏教に生きることなんじゃないかと。
それなのに、なぜ仏教に触れまくっている場で、このようなことが起きてしまっているのか。
仏教を学ぶことが壁や殻を作ることになってしまっている。
この大きなエネルギーによって、差別されている人が目の前にいるのに気づかないでいるということは、本当に怖いし悲しいです。
春のお彼岸について
【ご門徒の皆さまへ】
春のお彼岸参りが3月17日から始まります。
例年通りのペースでお参りさせていただきますが、ご希望のお時間等ありましたら事前に極楽寺までご連絡下さい。
3月16日は桜町方面のお彼岸参りです。こちらも予定通りです。
また、20日には、お中日法要をおつとめいたします。
10時30分からおつとめ、その後住職の法話、お斎となります。
どなた様もお気軽にお参り下さい。
よろしくお願い致します。
宗教者の役目
先日から「原発と布教」というテーマで原稿の用意を始めているわけですが、
原発に対する意見というと大体が「欲望(煩悩)が生み出したもの」というところで一致しているようです。
多くの方が原発に人間の在り方を重ねているようでした。
しかし、それでいいのかという思いがあります。
原発や原発によって生活を一変させられた方が、日頃布教している内容を証明する材料としてしまっていないだろうか。
そこから先の「では私たちはどうすべきか・どうしてきたか」というところまで踏み込む必要があるのではないか。
そんなことを考えています。
締め切りは月末。まだ時間があるのでゆっくり整理したいと思います。
原発と布教
今、「原発と布教」というテーマで原稿を書き出しています。
事故からもう6年が経っても収束を見せることの原発事故ですが、その影で多くの方が苦しみ、排除されています。
この原発について、浄土真宗はどんなアプローチができるのだろうか、布教がどう原発問題へのアプローチとつながっていくのか。
そんなことを書いていけたらと思います。
前住職不在が続く。。。。
昨年から、前住職が京都で本願寺派の布教使さん達の研修の講師に任命されて、1〜3月の間はほとんど極楽寺にいない状況が続いています。
10数名の少人数の研修だそうで、とてもやりがいのある仕事のようです。
ちょうど住職も交代となりお寺にいればだんだんとやることが減っていくでしょうから、これからは(今までもそうでしたが)どんどん外に出て行けばいいんじゃないかと思います。