お知らせ

お米
日々のこと

被災地でお米を配ったあと、震災当時の映像を見て感じたこと

2月24・25日と宮城県亘理町というところにボランティアに行ってきました。
亘理町は宮城県の中でも福島県側の海沿いの街です。
2011年3月11日の東日本大震災の際には、やはり津波の被害を受けてしまい、多くの方がお亡くなりになりました。

私は2011年3月末から亘理に初めて入り、時々行ってはボランティア活動を行っていました。


諸行無常ズなどの消しゴムはんこの活動は、こちらの仮設住宅の集会場でオーダーメイドの消しゴムはんこを作ってプレゼントしたことがきっかけです。

今回は津波の被害に遭われた方々がお住まいの仮設住宅へお米を届ける活動をしている「震災支援ネットワーク東海」さんからお声がけいただいて、3キロに小分けしたお米を一軒一軒手渡ししながら、お話を聞かせていただくという活動を行ってきました。

そこの仮設住宅にはボランティアを通して知り合った方(Aさん)がいらっしゃったのですが、震災支援ネットワーク東海さんのメンバーが20名以上いて、その中で団体行動をしなくてはいけなかったので、お会い出来るかどうかわからなかったのですが、タイミング良く全てのスケジュールが終わってからAさんとお会いすることが出来ました。
Aさんは津波で被害を受けた場所ではないところに家を建てたばかりとのことで、新しい住宅にお邪魔して少しゆっくりさせていただきました。
周りの住宅もほとんど津波で被害をうけた方々が建てたものだそうで、隣の山元町から移り住んできた方も多いとのことでした。
お茶を飲んでしばらくすると、震災当時の写真や津波の映像を見せていただきました。普通は見せないものだそうです。
最初に建物の3階くらいから津波が押し寄せる映像を見せて下さったのですが、周辺には何人もの人がいるのか叫び声が響いていました。津波が押し寄せる中、画面の端を走っていく男性の姿が見えました。「きっとこの人は助かっただろう」とのことでしたが、その後の津波の勢いを見ると「ほんとにそうなのか」と思わずに入られませんでした。
次に見せていただいた映像はヘリから撮影したもので、津波が発生して海岸に到達したところからどんどん勢いを増していく様子が撮影されていました。
色々なものを巻き込みながら勢いを増す津波を撮影している先に、ついに民家や道路が映し出されるようになりました。そして少し先には避難中の車が。思わず「あっ!」と声を上げてしまったのですが、道路が津波の進行方向になく、津波から平行に伸びていたので、車を走らせても全く津波から離れることが出来ず、そのまま車は巻き込まれてしまっていました。

 

その後津波はどんどん進み、今度は渋滞している車の列を巻き込みました。

 

映像はヘリの音だけだったのですが、直前に見た映像の叫び声を思い出し、きっとその場所も叫び声が聞こえていたのではないかと考えました。そして、叫んだり私がそっちに逃げちゃダメだと思ったところで、容赦なく津波は全てを巻き込んでいくという現実を目の当たりにしました。
さらに当事者のAさんから見せられたことで、よりリアルに感じたのかもしれません。
その後、津波に巻き込まれた方の捜索の様子の写真を見せていただきました。普通はメディアには出てこない写真ばかりでした。捜索されている方の大変な苦労があって、ご遺体を発見出来ていることを教えていただきました。

そのあと「発見された方はほとんど即死だったから苦しむことはなかったんだよとお医者さんは説明していたど、本当にそうなのだろうか。やっぱり苦しいと思うんですよね」という話をAさんがしてくださいました。死は個人の問題だけでなく、その方に関わる人達にも影響を及ぼすものであり、残された方々に対して少しでも安心してもらう役割を今回はお医者さんが担ってたのかもしれないという話になりました。
結局、色々な方にお会いしている間に亘理の出発が夜になり、新潟に到着したのは日をまたいでからということになりました。
帰りの磐越自動車道は夜中ということもあり、ほとんど車が通行しておらずとても静かだったのですが、静かになるといろいろ考え出すもので、津波に巻き込まれた車や、叫び声、ご遺体の姿がフラッシュバックのように浮かび上がってきました。
1人で運転中ということもあり、そのことばかり考えるようになり、だんだんと気分が悪くなってしまいました。
最初は「見なきゃ良かったな」と思いました。しかし、その日私が見たものはまぎれもなく現実に起きたことで、私が見ようが見まいが関係なく起きていた事実です。見なきゃ良かったという考えは臭い物に蓋をするだけのことで、現実逃避にしかならないということを考えると、やはり見た方が良かったと思なおしました。

 

何気なくボランティアでお米を配っていましたが、仮設にお住まいの皆さんはもれなくこのような現実を抱えながら生活しているということを再認識させられました。
私は原発事故による避難者の方々と交流がありますが、直接話を聞いたり色々なことを調べていくうちに、外向きには何てことない言葉でも、その裏には複雑な心情があることを学びました。
そのことで会話や行動が変わってきたように思います。
例えば、自主避難の方で新潟に来ている方が「戻ることになった」と言った場合、地元に帰れるのだから「おめでとう」という人も少なくありません。しかし、もともと危険を感じて避難してきた方にとっては「地元に帰る」という選択肢は諸手を上げて喜ぶことではありません。とても複雑な心境です。
「よかったね」と言われても・・・・となります。
このことは色々な話を聞いて、放射線の知識などを学んでいくことで理解出来るようになってきました。

 

それと一緒で津波の被害にあった方のところへボランティアに行くのも、どのような現実があってどのような心境なのかを聞かせていただきながらでないと、ある時に全くズレた行動を起こしてしまうのかもしれません。
ボランティアは相手があってはじめて成り立ちます。いきなりボランティアはこういうもので、被災者はこういうものだというルールを作って入ってくるボランティアはあまり好きになれません。
お米を配ることで終りなのではなく、そこから色々なお話を聞いて、また出来ることを探していこうと「対話」を大切にしようとがんばっている震災支援ネットワーク東海の皆さんとこれからも一緒に活動していきたいです。

ページトップへ戻る