浄土真宗の教え

昔むかし、ある国王が世の中のすべてが無常であったことに気づき、城を捨て国王の位を捨て出家して、
一人の修行者となり「法蔵」(ほうぞう)と名のりました。
この法蔵菩薩は、やがて「十方衆生」といわれるすべての人びとをすくう如来となることを思い立つとともに、
その救いを完成させるためにはすべての人びと一人ひとりの身のなかに飛び込んで仏性(ぶっしょう=ほとけだね)となる如来とならねばならないと決意しました。
この決意を実現するために、法蔵菩薩は果てしなく長いご修行を重ねられついに南無阿弥陀仏という如来になられたのでした。

地上に生まれられた、唯一の仏さまであるお釈迦さまが「お経」のなかに述べておられるお話です。
一見、荒唐無稽とも思われるお話ですが、浄土真宗の教えは、このお話を聞いてそのままに受け入れることにつきます。
このお話を聞いて受け入れた親鸞聖人は、和讃のなかに次のようにうたわれます。

信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり

信心よろこぶその人、つまりお釈迦さまのお話を聞いてそのままに受け入れた人は如来と等しいと示されるのです。
なぜなら、南無阿弥陀仏という如来は全ての人びとの身のただなかに働いているから、その生命は如来と等しいというのです。
「如来」は仏教徒である私たちにとって、これ以上にない最高に尊いものです。
その無上の尊厳を自他の生命のなかに認めて行かれたのが親鸞聖人です。

鎌倉時代という封建時代のなか、親鸞聖人の所属した法然上人の専修念仏の教団は、時の朝廷によって弾圧され、無実の罪を着せられあるいは遠流に処せられ、また4人の仲間は殺されています。
そればかりでなく、一握りの支配者を除く多くの庶民は強権支配のもと塗炭の苦しみの中に生きていました。
親鸞聖人は、その人間の命の尊厳を損なう社会の現実を、「如来とひとし」という視点から厳しく批判をされ、
同じ苦しみに生きる人びととお互いにうやまいあいながら、同じ仲間「御同朋」として共に手を携えていかれました。
鎌倉時代といわれる800年前の時代に、このように人間の尊厳・自由を「如来とひとし」という言葉でうたいあげられたのが親鸞聖人の浄土真宗です。

それでは、私たちの現実社会はどうでしょうか。
先の15年戦争での数多の生命の犠牲から確認された「非戦」の願いは、「戦争のできる普通の国」をめざす大きな声の前に、今や風前の灯のようになっています。差別やいじめで生命を奪われる事例は後を絶ちません。貧困の問題もあります。
また福島第一発電所の事故で、原子力発電所と人間の生命は共存できないことが明らかになった現在でも、原発推進の声は消えることもありません。

今こそ一人ひとりが、「如来とひとし」との教えに聞き、「経済」や「効率」の声に惑わされるのではなく、
生命の尊厳を第一に生きることが求められています。御同朋の社会をめざして一歩一歩の歩みを進めていきましょう。
極楽寺では「みんな仲間 御同朋」をスローガンに、ご門徒皆さまと手を携えて豊かな人生を歩んでいきます。

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